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奄美市名瀬の観光ネットワーク奄美というガイド会社をやってます。 ガイドの勉強のために集めた本を中心にご紹介します。
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2012年02月22日

アジア歴史海道の中の名瀬

 2012年2月19日に行われた「ヤンゴ歴史フォーラム」に行って来ました。

 写真は配布されたパンフに掲載されていた大正時代のヤンゴ(屋仁川)。原口泉先生が”まさに国際都市・長崎と思えるような街並み”とおっしゃってましたが、ヤンゴ通りはまさにフォーラムのサブタイトルにあるように”アジア歴史海道を彩るエキゾチックタウン”だったようです。
 残念ながらシマの人々にとって搾取の続く辛い時代だったようですが。

 フォーラムは奄美博物館の館長である中山清美さんの「名瀬以前-赤木名集落の調査から」では赤木名の街のつくりと名瀬の違い、学芸員の久さんによる江戸時代に描かれた名瀬の街の説明、同じく学芸員の高梨さんによる白糖工場の説明、郷土研究会の岩田さんによる明治期の屋仁川周辺の解説、ウタ者・築地俊造さんによるシマ唄とヤンゴの関係、そしてまとめとして郷土研究会の弓削さんによるヤンゴの歴史からみる名瀬、最後に原口泉さんからはタイトル「記念講演:世界の酒とヤンゴ」とありましたが、幕末から明治にかけての薩摩藩の政策と名瀬の街の関係のお話と、約4時間におよび濃いフォーラムでした。

 フォーラムの内容および配布された資料などからヤンゴと名瀬の歴史を簡単にまとめてみます。
 名瀬の街は江戸時代には享和元(1801)年に現在の拘置所や裁判所などがある場所・伊津部に仮屋が移転されるまで小さな集落だったようです。
 それまでは慶長14(1609)年に薩摩の奄美・琉球侵攻後、慶長18(1613)年に大笠利に奉行所が出来、その後、名瀬大熊に移転して仮屋となった後、赤木名金久・名瀬大熊・赤木名と移転を繰り返していました。
 名瀬の街が大きくなる転機が、伊津部の仮屋の隣に慶応元(1865)年にできた名瀬の白糖工場です。なお同時期に宇検村須古、数年後に瀬戸内町久慈と龍郷町瀬留と4箇所の白糖工場ができます。
 日本初の蒸気機関を用いた白糖製法の工場で、慶応2(1867)に鹿児島紡績所が蒸気機関を使っていますが、それよりも2年早いのです。
 何故、白糖工場が奄美大島に出来たのかというと、これがいきなりスケールの大きい話で、上海との貿易のためでした。
安政6(1859)年の長崎・横浜・函館開港以前に薩摩藩では奄美大島を基地にしてオランダ・フランスと貿易を行おうとしていました。
 この計画はオオシマ・スキームと呼ばれています。第11代薩摩藩主島津斉彬は、開港地がすべて幕府直轄地だけになり、貿易の利が幕府に独占されるのを恐れて秘密裏に日本開港以前に貿易に着手しようしました。

 この貿易は長崎のグラバーの仲介でした。
 薩摩藩は貿易によって莫大な利益と蒸気船や銃など武器を手に入れます。さらには豊富な硫黄の産地を持っていますので、大量の火薬を生産でき、これば明治維新の原動力となっていきます。

 薩摩藩はさらにグラバーの仲介によって、より価値の高い白糖を生産するためにオランダ技師二人によって奄美大島に白糖工場を建設します。
 その規模や状況については昭和10年に鹿児島県立糖業講習所が「慶應年間 大島郡に於ける白糖の製造」という冊子に当時関わった人々に聞き取り調査を行なってまとめています。
 この冊子では名瀬の工場は煙突が2本あり、高さは書かれていませんが、他の工場の記述では30mもあります。
 明治維新もあり3年の稼働で廃止となっていますが、廃止の主な理由はサトウキビの運搬が困難だったことと大量に必要な薪の調達難だったようです。
 工場の近く、現在のらんかん山にはオランダ人技師2名の宿舎として瓦葺きで白ペンキの塗られた建物があり蘭館と呼んだそうで、「らんかん山」の由来と言われています。
 また、宿舎には身の回りの世話するマシュという女性がいて、技師の一人と恋仲になり、宿舎に通う様子を唄ったのがシマ唄の「らんかん橋」という説を築地さんが紹介してくれました。また、技師が島を離れる時のマシュの様子を唄った歌詞がくるだんど節にあり唄ってくれましたが、これは「奄美民謡物語」という冊子で紹介されています。
 いずれにしても当時、小さな集落だったところに役所(仮屋が地域別に7つ集まっていた)が出来、さらに大きな工場が出来たとなれば多くの人が住み始めたのが想像できます。

 白糖工場の廃止後、明治に入ると鹿児島県は薩摩藩時代と同様に奄美の砂糖を独占しようとしますが、勝手世運動により、明治11年(1878)に黒糖自由売買となります。
 旧・伊津部仮屋周辺には黒糖の買い付けと商品の販売のために、日本各地の商人が島に進出してきました。(寄留商人)
 その寄留商人のリストは弓削さんが昨年(2011)、筑波で発見した三方法運動(寄留商人が島の人々を相手に起こした負債返済裁判に対する反対運動)の裁判記録にあります。

 また、名瀬の白糖工場跡は日本郵船の岩崎弥太郎に売却されています。(岩多さんが弓削さん発見の竿次帳より発見。2011年)
 これは、岩崎弥太郎が西南戦争の際に政府軍の輸送を一手に引き受けたこと、さらに台湾出兵の際の輸送も行ったこともあったと考えられ、日本郵船の支店が白糖工場跡地周辺にありました。

 これらのことから、それまで各地を転々としてたズレ(遊女)やその周辺に住み着くようになり、また料亭なども集まるようになって、寄留商人などが接待に利用するようになりました。
 しかし、現在の商店街のあたりなどに点在していたこれらのお店が風俗上好ましくないということで明治44(1911)年から10年ほどかけて、現在の屋仁川の地に集められヤンゴが形成されていきます。

 余談として、元々ズレは島々を周り、シマ唄を唄っていましたが、島外者である寄留商人などを接待するためには日本の長ざおの三味線で日本民謡を唄っていました。
 しかし、それでも仲間内のなぐさめにはシマ唄を唄い、そこで従来のシマ唄に日本民謡が混ざり込んできたのかもしれません。

 ヤンゴの歴史については100周年記念で発行された冊子「やんご生誕百年 記念誌」に細かく記載されていますので、興味の有る方はご覧下さい。
 しかし、今回、名瀬の街の形成がこれほど大きな時代の流れにあるというのはびっくりしました。


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